2012.06.26 Tuesday
キラキラネームは就職に不利 大手メーカー役員
ある大手メーカー役員がキラキラネームについて、採用時に気にするとコメントしています。
引用元 NEWSポストセブン
はたして、名前から、本質を判断することができるのでしょうか。
私たちは、親の影響、共に生きた人の影響を受けています。「蛙の子は蛙」「朱に交われば赤くなる」など、縁が本人に影響を与えることに関する諺は豊富ですし、「名は体を表す」という言葉もあります。
私がNikkei、Newton、Newsweekを読んでいるのは、コンビニで新しいドリンクを手に取るように選んだのではなく、周りの人に手渡されてのことです。印傳の財布を使うのも、サントリーホールでエフゲニー・キーシンを聴くのも、禅寺の老師に参禅したのも、元はと言えば、幼子からの縁ありきです。投資なんてさもしきものに手を出したのも然り。
少し大げさに言うならば、私たちの言葉も、思考も、振る舞いも、すべては今まで出会った人のそれをモンタージュしただけ、かもしれません。
私たちが、親の影響を受けて生きているならば、親の命名センスが、子に影響を与えている可能性は否めません。
そうえいば、昔は履歴書には親の職業を書く欄が設けられているものがありました。いつの間にかなくなりましたが。
もちろん、どんな親の元に生まれても、どんな名前をつけられても、優秀な人は優秀です。ですから、選考に十分な時間をかけられるのであれば、名前にとらわれず、十分に本人の本質を見極めて採用するべきです。しかし、選考にもコストがかかります。コストが発生する以上、企業は、コストパフォーマンスの高い選考手段を選択します。そして、キラキラネームは、見当のひとつになっているのでしょう。
しかし子は、親を選べないし、名前も選べません。この落とし所をどうやってつけるか。履歴書から名前の欄を消すわけにもいきません。
私は、人生において「本人が選択し得なかった部分」での有利不利を小さくするために、成人になる際、自分の名前を変更する権利を与えるのがよいと思っていますが、この実現は遠いでしょう。
結局、キラキラネームが不利に傾く可能性があるなるならば、それを受け入れて、むしろ他の部分で挽回するのが現実的だと考えます。
親は選べなくても、師は選べるし、友は選べるし、伴侶は選べます。
昔、釈尊の弟子が次のように質問しました。
「善き友と生きれば、それで修行の半分は完成すると思ったのですがいかがでしょうか」
釈尊は次のように答えました。
「いいえ、それは間違っています。良き友と生きれば、修行の全てが完成します」
善き友と、善き人生を歩めば、いつか彼の名こそが善き名となるでしょう。
キラキラネームの学生は就職活動で不利だというのだ。一部の極端な例だけで決めつけることには問題があるが、このように採用試験の際にキラキラネームを気にするようになった企業は少なくない。ある大手メーカー役員は、「いいにくいことだが」と前置きし、「そういう名前を付ける親御さんの“常識”はどうしても本人に影響してしまうからね」と語った。
引用元 NEWSポストセブン
はたして、名前から、本質を判断することができるのでしょうか。
私たちは、親の影響、共に生きた人の影響を受けています。「蛙の子は蛙」「朱に交われば赤くなる」など、縁が本人に影響を与えることに関する諺は豊富ですし、「名は体を表す」という言葉もあります。
私がNikkei、Newton、Newsweekを読んでいるのは、コンビニで新しいドリンクを手に取るように選んだのではなく、周りの人に手渡されてのことです。印傳の財布を使うのも、サントリーホールでエフゲニー・キーシンを聴くのも、禅寺の老師に参禅したのも、元はと言えば、幼子からの縁ありきです。投資なんてさもしきものに手を出したのも然り。
少し大げさに言うならば、私たちの言葉も、思考も、振る舞いも、すべては今まで出会った人のそれをモンタージュしただけ、かもしれません。
私たちが、親の影響を受けて生きているならば、親の命名センスが、子に影響を与えている可能性は否めません。
そうえいば、昔は履歴書には親の職業を書く欄が設けられているものがありました。いつの間にかなくなりましたが。
もちろん、どんな親の元に生まれても、どんな名前をつけられても、優秀な人は優秀です。ですから、選考に十分な時間をかけられるのであれば、名前にとらわれず、十分に本人の本質を見極めて採用するべきです。しかし、選考にもコストがかかります。コストが発生する以上、企業は、コストパフォーマンスの高い選考手段を選択します。そして、キラキラネームは、見当のひとつになっているのでしょう。
しかし子は、親を選べないし、名前も選べません。この落とし所をどうやってつけるか。履歴書から名前の欄を消すわけにもいきません。
私は、人生において「本人が選択し得なかった部分」での有利不利を小さくするために、成人になる際、自分の名前を変更する権利を与えるのがよいと思っていますが、この実現は遠いでしょう。
結局、キラキラネームが不利に傾く可能性があるなるならば、それを受け入れて、むしろ他の部分で挽回するのが現実的だと考えます。
親は選べなくても、師は選べるし、友は選べるし、伴侶は選べます。
昔、釈尊の弟子が次のように質問しました。
「善き友と生きれば、それで修行の半分は完成すると思ったのですがいかがでしょうか」
釈尊は次のように答えました。
「いいえ、それは間違っています。良き友と生きれば、修行の全てが完成します」
善き友と、善き人生を歩めば、いつか彼の名こそが善き名となるでしょう。